吉田松陰は30歳で処刑される短い生涯でした。しかし濃縮した生涯であったことが感じられました。幼少のころは叔父の玉木文之進が開塾した松下村塾で教育を受けて、3代目の塾長になりました。アメリカ軍艦が浦賀に来航するや、松陰は海外の事情を視察、研究する必要を感じ、下田から金子重輔と共にアメリカの軍艦に2人で乗り込もうと大胆不敵な行動をしました。結果は失敗に終わりましたが,その情熱は伝わります。この密航事件で死罪になるところを、助命され、長州 野山獄に幽因されました。吉田松陰はその間、年間400冊の本を読んだと記録がありました。安政の大獄で再び投獄され、ペリー来航以来の幕府の一連の政策を批判して処刑されました。享年30(29歳没)。しかし吉田松陰の考えや格言は多くの人に影響を与えました。
松下村塾では吉田松陰を始め、高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、野村和作、前原一誠、伊藤博文など、幕末から明治期に活躍した人材を教育しました。しかし、私は萩の町を訪れて,この町がこのような人材を育てる土壌が備わっていたのではないかと思われました。城下町にある菊屋家は、藩の御用商人を務めていた豪商で屋敷は江戸初期の建築、現存する商家としては最古の部類に属し、400年の歴史がある家屋。ここを訪れて、この文化財の管理のしかた、観光客への配慮があり、特に庭の手入れは最高の技術が見て取れました。ここだけではなく萩市内の名所の各所に同様の工夫が感じられました。
幕末の歴史に疎い私でしたが、萩という町が興味深い地で有ると感じ、同時に幕末に活躍した人たちの情熱にも興味がわきました。 2012.5.M
吉田松陰の辞世の句は2つ有ります。
門弟達に向けて
“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。
家族宛には “親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”